今日も静岡茶屋でお待ちしています vol.3 牧之原の大茶園とほうじ茶ラテ

萩埜園 静岡茶屋

今日も静岡茶屋でお待ちしています vol.3 牧之原の大茶園とほうじ茶ラテ


  静岡駅北口から北西に歩いて15分ほどの『茶町』には、全国の荒茶の1割が取引されている『静岡茶市場』があり、その茶市場を囲むようにお茶屋が軒を連ねます。その茶町の細い路地の一角にたたずむ静岡茶屋。店主の薫が今日もお茶とともにみなさまをお待ちしています。

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 いやいや期が始まったばかりの2歳の娘・綾香は、あれもいや、これもいやといってすぐに泣く。香苗は、泣き声をきくのが辛くて娘の要求に応えようときりきりまいになる。今日も綾香のご機嫌を取るため、駿府城公園に連れ出すことにした。自宅から歩いて15分のところにある、駿府城公園は街の中心地でありながら、広々としていて、とても気持ちがいい。二人ともお気に入りの場所だ。

 ところが、公園のベンチに座り、トートバックに入れてきたプリンを取り出したところで雲行きが怪しくなった。
「やだやだ、プリンはやだ」
 はじまった。香苗は大きなため息をついた。
「あっ」
 綾香がプリンのカップを放り投げた。ぐしゃりと音がして地面に盛大にカラメルソースとプリンが広がった。カップは少し離れたところまで転がった。香苗の口から、おもわず大きな声が出る。
「綾香が食べたいって、昨日自分で選んだんじゃない」
 近くで女の子の漕ぐ三輪車を押していた父親がこちらを見る。綾香は火を噴いたように大きな声で泣きはじめた。香苗は自分も泣きたいのをこらえてカップを拾いに行く。

 香苗がカップを拾おうと手を伸ばすと、別の手がひょいと伸び、それを拾い上げた。
「ああ、せっかくのプリンだったのにねぇ」
 エプロン姿の男性がカップを香苗に渡す。香苗は謝った。
「すみません……」
 子どもが騒いですみません。プリンで地面を汚してすみません。親なのにちゃんとしていなくてすみません。すみません。すみません。親になってから、ずっと謝ってばかりだ。帰宅が遅い夫はいつも疲れていて、育児の悩みを共有できていない。綾香が同じ月齢のお子さんより発育が遅いことが気になり、ママ友とは疎遠になっていた。子育てって、もっと笑顔いっぱいでするものだと思っていた。どうして自分は児童館であうママ達みたいに笑って子育てできないんだろう。そう思うと涙がこぼれ落ちそうになる。
「子育てって、大変ですよね。ぼくはまだ子育てを経験していないけど、思い通りにならないことばっかですもんね」
 ひさしぶりに言葉の通じる人と話をした気がして、こころの溜まった本音がするりと言葉になった。
「これが自分だけのことなら、例えば会社の仕事なら、努力すれば成果が数字でわかったり、周りに評価してもらえたりしますよね。自分も何かの役に立っているって実感できたりしたのできたんですが、育児では頑張っても空回りしているような気もしてずっと終わりがなくて、ほんとうに疲れちゃって……」
香苗はまた小さくため息をついた。

「よかったら、どうぞ」
不意に、目の前に湯気の立つ小さな紙コップを差しだされた。おどろいてカップの中を覗き込む。キャラメル色の液体が入っている。

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「ほうじ茶ラテの試飲です」
 そういわれてはじめて、すぐそばに立っている黒地に白抜きのノボリに気がついた。”静岡茶屋“と書いてある。男性は、自分はお茶の販売をしているお茶屋さんで”薫”と名乗った。

 香苗は薫に手渡されたコップのお茶をひとくち飲んだ。とつぜん、口の中が香ばしい甘さで満たされる。
「おいしい……ほうじ茶ラテってこんなに美味しいんですね!」
薫は香苗の傍らを見て微笑んだ。いつの間にか泣き止んだ綾香が香苗の手を握り、薫に微笑み返した。

「これは静岡県中西部の牧之原で作られたほうじ茶でつくりました。牧之原の茶園は明治維新で職を失った武士が荒地を開墾して、輸出用のお茶で生活の糧を見いだしたことにはじまります。お侍が刀を鍬に持ち替え、荒地を開墾するってすごく大変だったみたいです。荒地にお茶の木を植え、お茶が摘めるようになるまで、何年もかかって……。でも、そこから茶園が広がり、牧之原は日本一の茶産地・静岡を支える大茶園になったんです」

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 香苗は、侍が慣れない手つきで茶摘みをする姿を思い浮かべた。パソコンに向かう仕事ばかりしてきた香苗にとっての育児も、侍が刀から鍬に持ち替えるようなものかもしれない。
「あの、ほうじ茶ラテって自分で作れるんですか」
「もちろん! ほうじ茶と牛乳さえあれば」

   *

 綾香がお昼寝している間に、香苗は薫に教えてもらったほうじ茶ラテを作ることにした。小鍋にカレースプーン1杯分のほうじ茶を入れ、マグカップに3分の1くらいのお水を入れる。沸いてきたら弱火で1分、香りが立ってきたら、マグカップに3分の2くらいの牛乳をいれて、さらに1分。茶こしを使って湯気の立つ液体をマグカップに注ぐと、狭いキッチンにほうじ茶のこうばしい香りが満ちた。

 ひとくち、飲む。薫が飲ませてくれたほうじ茶ラテと同じ、やさしい甘さが口の中いっぱいに広がった。綾香と一緒のときはこぼさないかとか、ちゃんと食べるだろうかと気を揉み、自身が”味わう”というごく自然なことを忘れていた。

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 もうひとくち、カップに口をつけながら、思う。お茶の木にたとえるならば、綾香はまだ幼木なのだ。わたしも幼木を育てはじめてまだ2年。幼木がしっかり根を張り、ゆっくり枝葉を広げてくれるよう、どっしりと構えていこう、焦ることはない――。

 熱いほうじ茶ラテが、香苗のこころのかたい部分をほんのすこし溶かしたような気がした。

イラスト/yukiko
取材協力/萩埜園

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 (現在の牧之原大茶園 2020年2月25日撮影)

牧之原の大茶園では、今年も農家さんが愛情を注いでお茶を作っています。茶園が萌黄色へと美しく変化する春。静岡のいたるところでお茶の香りが満ちる季節ももうすぐ――。

-萩埜園, 静岡茶屋

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